ELVIS go to movie's World and His Mam Dead.エルビス映画界進出と母親の死7(追記記事あり )
4 月29日金曜日追記◆九州の熊本、大分では地震から2週間が経過しボランティアの活動や道路の復旧などが報道されています。
子供達、小学校など、休校を余儀なくされる状態が出ています。
地震は、まだ震度4など、発生が続いてます。
連休に入りましたが、これからさらに被害が広がらないことを祈っております。
ELVIS was twin , but His brother was dead.
□エルビスは音楽に敏感な子供だった。
幸せだったのは父ヴァーノンと、母グラディスが音楽好きだったことだ。
Mam
Papa
フロントポーチでよくゴスペルを歌った。
それがエルビスに影響を与えたと考えられる。
妊娠末期の不安な時、その歌声は母親ばかりでなく、お腹の中の子供にも安らぎと心地よさを与えた。
胎児の時期も、母親の腕の中でも、よちよち歩きの時も、音楽はエルビスの心を豊かにしていった。
それは3歳の時、家のすぐ近くの教会で、いつものように母親の膝の上で礼拝に加わっていたエルビスは、
祭壇脇にならんだコーラス隊が賛美歌を歌い出すと膝から滑り降り、中央通路をつかつかと進んで彼らの前に立つと、
言葉は分からないながらも、彼らの歌声に合わせてメロディを口ずさみはじめたというのだ。
これが今も伝えられる「幼児期伝説」だ。
◆エルビスのストーリーは、いよいよ映画界への、活動に入ります。
スクリーンテストを経てパラマウントと7年間3本の契約を交わした。
バート・ランカスター主演の「レインメーカー(邦題 雨を降らせる男 )」
でフランク・フェイロン相手に「ブルースエード・シューズ」を歌ったのだ。
1956年8月、念願の初映画、20世紀フォックスの「ラブ・ミー・テンダー」
の撮影が始まった。
「ドント・ビー・クルーエル」
や「ラブ・ミー・テンダー」
もレコード注文が舞い込み、
そして映画「やさしく愛しても」大ヒット
これもマネージャーのトム・パーカーの計画にもとづいたものであった。
彼のもう一つの夢、エルビスを単なる歌手にはしておかないという事は、着々と実現されていった。
□10数年後のラスベガスのインターナショナル・ホテルのライブショウも大々的に行われた。
□人間的にも成長し、大人の魅力を身につけたエルビスをもう一度、売り込もうとしたのである。
□これらのプランもマネージャーの計画なのだろう。
□エルビス自身も、以前地方巡業していた時のようにステージの感動した気持ちを取り戻したかった。
□エルビスは自分の望む強い気持ちに 従い行動していった。
□しかし過密なスケジュールは、繊細な神経の持ち主のエルビスを徐々に追い込んでいった。
□そして、ストレスをため込んでいったのだろう。
□それが過食症という悪癖につながる原因とも考えられる。
また、薬物依存も増長していった。
4月 25日追記
□別の文献「エルビス・プレスリー」
ボビー・アン・メイソン著 、
外岡尚美訳 岩波新書
によると、ラスベガス・ライブの頃や映画出演で莫大な収入を得た頃から、取り巻き連中などにベンツをプレゼントするなど、浪費癖があった。
□収益の配分はトム・パーカーと初めはエルビス7 割、 パーカー3割 その後、5割と 5割になった。
□ラスベガスで20日や 30日連続の、
1日2回のライブ・ショウもこなすハードなスケジュールで、心身共に疲れ果てていった。
□しかしパーカーは、仕事を減らすことは決して考えなかった。非情である。
□そしてライブのクオリティも徐々に下がっていった。
「エルビス世界を変えた男」より
□エルビスが生前行っていた莫大な寄付があった。
チャリティー・ショウからの巨額の収益金やエルビス個人の寄付金が、
多くの病院、施設、学校などに気前よくばらまかれていた事実は、改めて多くの人々を感動させた。(追記終わり)
エルビスが22歳の時、メンフィス徴兵委員会からの兵役要請あってから、もっとも気落ちしたのはファンより母親のグラディスであった。
それからからのグラディスは、見る見る元気がなくなり、いつもの酒浸りがいっそうひどくなった。
精神安定剤と痩せ薬との併用も彼女から生気を奪っていった。 扶養家族がいる兵士は、訓練所近くならば基地を出てその家族と住むことができる、これはグラディスには願ってもないことだった。
さっそくエルビスは、基地近くのキリーンに家を借り、両親を呼び寄せた。
こうして少なくともエルビスが海外に送りだされるまでは、親子3人の暮らしが戻ってくるものと思われた。
しかし8月に入っても、グラディスの健康は思わしくなかった。
暑さのせいもあった。
キリーンの家には冷房がなかったからだ。
そんなある日の午後、エルビスのいない間にいつものように夫婦喧嘩がはじまり、興奮のあまりグラディスが昏倒した。
長年のアルコールと鎮静剤の中毒による、急性肝不全と診断された。
入院した母親のためにエルビスはやっと外出許可をとったが、医者も家族もグラディスにしてやれることは、何もなかった。
8 月 14日、午前3時過ぎ、グラディスは心臓麻痺で亡くなった。
父親からの電話でエルビスは起こされ、病院に駆けつけた。
死に顔は美しかったと、後々までエルビスは語っている。
葬儀には、3300 人のファンがグレイスランドを取り巻き、 300人が弔問に訪れた。
エルビスは、10日後、テキサスの陸軍に戻った。
その約1ヶ月後の9月 22日、エルビスたちアメリカ陸軍兵士1700名は、西ドイツのブレマーハーヴェンへと向かった。
それはエルビスにとって、悲しみから立ち直るいい期間だった。
□記事は「エルビス世界を変えた男」の
内容を参照して作成してあります。
◆次回はエルビスの兵役後の様子などを
書く予定。